「本来の私」に自愛を掛ける。

 

元々「自分だと思っているキャラクター」が存在するのは何故なのか?

 

「本来の私」は完璧な存在だからこそ、

 

「喜怒哀楽」の感情も感動する実感を持てないから、

 

「自分だと思えるキャラクター」を多数作り出して、

 

それぞれのキャラクターの喜怒哀楽の感情や感動を得る事をしている。

 

でも上記の内容というのは、

 

4等分に分けたトランプを使って「ひとりババ抜き」をして、

 

その内一人が、

 

「やった!!」

 

「一番で上がれた!!」

 

「ありがとう!!」

 

と感動している「自分だと思えるキャラクター」の疑似体験を延々しているだけに過ぎないのでは?

 

という疑問が浮かんだ。

 

だったら、

 

「自分だと思えるキャラクター」が「本来の私」に直接伝えれば良いじゃない。

 

「完璧に自分だと思えるキャラクターを作りあげてくれたから、自分だと思えるキャラクターは喜怒哀楽の感情を得る人生を送っているよ。」

 

「あなたには、そんなキャラクターを作る事が出来る完璧な存在なんだよ。」

 

「本来の私は、自分で自分の中にある愛情に自信を持って良いんだよ。」

 

「自分だと思えるキャラクターに自愛させる前に、あなた(本来の私)そのものも自分から自愛させても良いんだよ。」

 

と、

 

自分だと思えるキャラクターの中に、

 

「本来の私」そのものが存在し、

 

自分だと思えるキャラクターは、

 

自分だと思えるキャラクターの中に存在する「本来の私」に直接語りかける事が出来るんだから、

 

疑似体験なんかさせずとも、

 

「本来の私」に実体験させる方が、

 

よっぽど「本来の私」の為になると思える・・・。

 

自分だと思えるキャラクター同士で作られた感動を作り終えないと、

 

「本来の私」は疑似体験も出来ないというプロセスは、

 

「なんか遠回りしてるなぁ・・・。」

 

って感じる・・・。