文字起こしの動画を見て・・・。

 

自分だと思えるキャラクターに振り回されずに、

 

「本来の私」そのものとして、

 

「自分に「本来の私」の振る舞いを行っても良い。」

 

という許可を与えても良い。

 

という事に気付いた。

 

というよりも、

 

「本来の私」として振る舞っても良いのではなく、

 

「本来の私」そのものを元々内包しているから、

 

振る舞っても良いという許可さえ与える必要もない。

 

という気付きも得た。

 

更に、

 

上記の件だけで進んでしまうと、

 

天上天下唯我独尊」に陥ってしまう。

 

「本来の私」は、「慈愛」や「利他主義」さえも自由に扱える存在でもある事。

 

過去に「神様の試験」を受けた事があるYouTuberの動画で言われていた内容である、

 

「全ての物には愛というエネルギーが込められている。」

 

「それは捨ててしまったゴミ箱の中にあるゴミにさえ。」

 

というセリフと繋がった。

 

インドのスピリチュアリストとして有名な女性は、

 

自分の中から溢れ出す愛のエネルギーを皆に与える事で知られているのだが、

 

恐らく彼女の視点から見れば、

 

目に映る外側の世界に存在するあらゆる物は、

 

「我が子」というよりも、

 

「自分の分身」そのものとして見ているのかもしれません・・・。

 

以上の事柄を踏まえつつ、

 

天上天下唯我独尊」の心情を得たとしても、

 

天上天下唯我独尊」の心情を踏まえつつ、

 

「目に映る外側の世界」に対して、

 

エネルギーが滞りなく循環するような世界を体感出来るようなアファメーションが出来れば良いな。

 

というエゴが生まれた。

 

まぁ、エゴでも良いじゃない。

 

良いエネルギーを自分で独り占めしてウハウハするよりも、

 

自分の分身にエネルギーをシェアするという意図があっても・・・。

 

「誰彼構わずというのはどうなのか?」

 

というエゴの意見も浮かんで来るが、

 

「前もって調整してくれるんでしょ。」

 

と、

 

エゴに対して回答しよう。

 

というのが今の心境・・・。