自分の手をギュっと握ってみる。
握りしめた手は、
自分の世界観(常識や自分が認める事が出来る範囲)だったり、
「井の中の蛙」で言う「井戸」の大きさとした場合、
手の外側に現れた「点」の存在について認識出来ない、
もしくは、
「非常識」で片付けられてしまう。
人間何とか「点」という存在を、
自分の世界観の中に取り込もうと成長を重ねる。
すると「手」は「点」を囲う事が出来る大きさになるのだが、
改めて、
自分の手の外側に新たな「点」が現れる。
まぁ、結局は「堂々巡り」だし、
(少なくとも自分は、)
現世だけではいつまでも解決出来ないのかもしれません・・・。
前回の記事で、
「免許皆伝」の話を書きましたが、
新たな自分の外側にある「点」の存在を知った事で、
「あぁ、自分の中ではスピリチュアルについて大学院レベルの習得が出来たと思っていたけど、実際は小学校卒業レベルだったんだ。」
と思うようになった。
でも、
「自愛」というのは、
スピリチュアルの基礎として大切な部分を学ぶ機会を得る事が出来た。
という「基礎が学べた有り難さ」も同時に感じている。
今まで学んだスピリチュアルの勉強も、
「ダーウィンの進化論」の知識を得たと喜んでいるだけに過ぎないのかもしれません・・・。
そして、
「自分は想像主」と認識して、
自分だと思えるキャラクターの無限の可能性に対する、
「ありとあらゆる設定の違いがある記憶」が自分の中に取り込まれて混同されずに過ごす事が出来るのも、
「自然の摂理」という名の、
エゴによるキャラクター設定が確立されているからかもしれません・・・。
エゴも自分の味方として捉えるか、
敵として捉えるかの見方についての学びが出来た自分に感謝をすれば、
ますます「自愛ワーク」が捗りますね!!